教育|名古屋大学グローバルCOEプログラム|テクスト布置の解釈学的研究と教育

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教育プログラム

テクスト布置解釈学

第1回「テクスト布置解釈学原論」授業

2007年10月3日に第1回「テクスト布置解釈学原論」の授業が行われました。

担当:名古屋大学大学院文学研究科 松澤 和宏 教授(フランス文学)

<授業要約>

 或る人の発した言葉を理解しようとするとき、どのような操作を人は「理解」の名の下に行うのだろうか?
 容易に思いつくことは、外国語を学ぶときの体験に重ね合わせて「理解」という営みを考えることである。辞書の定める単語の意味や文法を通して発せられた言葉を解読しようとすることになる。しかしながら、日頃、私たちが言葉を通して他人と意思疎通をはかったり読書をしている時に、実際に生きて働いている精神の営みは、辞書や文法の埒内には到底収まらない。なぜその人はこうした言葉を発したのか、そうした問いを抱かずには私たちの解釈の営みは一瞬たりとも成立しない。仮に言い表されたことが虚言であったとしても、虚言が言い表されたという事実の裡に、表現主体の意図を忖度することになる。機械論的因果関係の説明ではなく、相手の立場に身を置いて内在的に理解しようと努めなければならなくなる。表現内容の真偽ばかりではなく、他者の意図の理解が求められる。そこに身近でありながら、形式論理によっては合理化しきれない解釈という領域が顕れてくる。自然科学とは異なる人文学の特徴の一つは、この解釈学的な営為にあると言えよう。勿論これは<テクスト布置の解釈学>に向かうほんの一歩に過ぎない。なぜなら他者の意図を内側から理解しようとするいかなる営みも、解釈主体の主観性を完全に払拭することはできないからなのである。そもそも理解に先だって、理解を促し誘導するものに私たちは常に既に囲繞されている。それを先入主と呼んでもよい。いかなる研究もこうした先入主から完全に解放されることはありえない。なぜならそれは理解をそもそも可能にする地平でもあるからである。
 こうしてテクストの解釈は、発信者(著者)と受信者(解釈者)の両極を周回する∞の軌道を描く運動となる。言い換えれば、テクストとは二つの輪の接するところ、還元不可能な二重性として顕れてくる。一方でも他方でもないが、つねに双方に同時に関わり合うという場、形式論理では捉え難い、排中律を超えた場ならざる場として顕現してくることになるだろう。

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